レバノンの大爆発事故、その背後にある混沌の政治情勢
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2020年8月4日に起きたベイルートの港湾地区における大爆発。まさに世界を揺るがすニュースとなりました。爆発したのは行政の怠慢により長年倉庫に放置されていた化学物質であるとされており、160人以上が死亡、30万人以上が住む家を失う大惨事に発展しました。これに対し大規模なデモが発生、ディアブ首相の政権退陣へとつながりました。しかしレバノンの抱える問題の根は深く、現政権の退陣によって事態が改善するとは思えません。本コラムではレバノンのまさに混沌とした内政と国際社会における立ち位置について解説をしたいと思います。
レバノンという国
レバノンと聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?長く続いた内戦、イスラエルとの戦争、最近ではカルロス・ゴーン被告の逃亡先として注目を浴び、物騒なイメージが先行するかもしれません。しかし、国旗にあしらわれているレバノン杉に象徴されるように、実は自然に恵まれた国でもあります。地中海の最奥部に位置するその国土は海と山を擁し、海産物や名産のオリーブを使ったレバノン料理は中東料理の代名詞とされ、首都ベイルートから1時間強の場所に天然雪のスキー場もあります。
そんなレバノンですが、今回の爆発事故の前から、市民による大規模な抗議デモが断続的に続いていました。2019年10月には、WhatsAppなどのメッセージングアプリに対する課税がきっかけとなり、国民のインフラともいえるアプリに税金をかけるに至った国としての経済的苦境、そしてそれを招いた政治指導者の腐敗への不満が噴出。体制打倒を叫ぶ抗議運動へと発展しました。日本の外務省も2019年10月18日に「各地における抗議活動に関する注意喚起」を発出して注意を呼びかけ、これは現時点でも効力を有しています。
この時の抗議デモを受けて当時のハリリ首相は辞任、しかしそのあとを継いで2020年1月に発足したディアブ首相率いる連立政権は大胆な改革を打ち出したものの、ほとんど実行できていないと批判を受けています。
そして現時点で、レバノン・ポンドは2019年10月以来約80%の下落を見せています。生活必需品を輸入に頼る同国では食料品価格が当然急騰します。大量解雇や事業のストップなどパニック状態を引き起こしたことで、首都ベイルートなど大都市を中心に再び反政府デモが激化、一部民衆は中央銀行に火を放つなどしました。ドル不足によってほとんどの銀行が1週間の引き出し上限を200ドルに制限したことなども大きな不満をもたらしました。
世界銀行は、2019年11月時点で、経済状況の悪化が続けば、レバノンの貧困率は50%に達するだろうという見通しを発表しており、コロナ禍によって状況はさらに悪化しているものと思われます。
国民はこの経済的苦境の原因が、国にはびこる腐敗と非効率にあると見ています。国の汚職や腐敗の問題に取り組む国際NGO「トランスペアレンシー・インターナショナル」によると、レバノンのランキングは最新の2019年のもので180か国中137位。その背景にはこの国が抱える宗教の問題とそれに基づく特殊な政治制度があります。
特殊な政治制度
なぜ特殊な制度となったのか。その理由を知るには歴史を紐解く必要があります。
レバノンは第一次世界大戦後、フランスの委任統治領を経て、第二次世界大戦で一時ドイツに占領されたのち、1944年に独立を達成しました。歴史的経緯からイスラム教とキリスト教、その分派も含めると多くの宗教を抱えた国家であるレバノンは、国民協約というものを結び、政治ポストや議席数を宗派ごとに配分する制度を導入しました。そして独立の直後の期間には、中東の要所である地の利を活かし、中継貿易拠点として繁栄、経済は良好に推移します。しかし、イスラエル・パレスチナを巡って中東情勢が乱れてくるとそのリスクを恐れた外国の投資家は資産を引き上げ、経済は低迷。生活への不満から「国民協約」体制への不信が噴出します。特に、子を沢山もうけることを良しとするイスラム教徒の人口が急増していたのにもかかわらず、公的な国勢調査も行われずにキリスト教徒に有利な議席配分が見直されなかったことから、イスラム教徒の不満が増大します。そして1975年、キリスト教勢力とイスラム教勢力の衝突を軸としつつも、パレスチナ解放機構や周辺諸国の勢力も加わった大変複雑な内戦へと突入していきます。
泥沼の様相を見せた内戦も、1989年にようやく終戦を迎えます。「ターイフ合意」という終戦にあたっての合意では、レバノンの国会議席数はキリスト教優勢からキリスト・イスラム同数に改定されました。議席数も政治ポストも公認18宗派に対する割り当て制。首相はイスラム教スンニ派、大統領はキリスト教マロン派、国民議会議長はイスラム教シーア派と定められている、現在にも続く特殊な政治制度がここに確立しました。宗教・宗派ごとの有力家族や、内戦時代に生まれた政治組織が、権力を分有することで政治的に共存する、ある意味で”苦肉の知恵”という事ができるかもしれません。
この政治制度に基づく権力分有は、政治ポストや議席にとどまらず、司令官をはじめとする軍の幹部、高級官僚、中央銀行総裁などの人事にも及んでいます。この硬直化した構造の中で、政治も行政も、国家全体の利益など眼中になく、自らや自らの宗派や所属グループの私腹をこやすことに汲々としている・・・これが今回の爆発事故につながる怠慢の原因であり、かつ国としての経済的苦境の理由である、というのが抗議デモ参加者の主張です。日本人にとって衝撃的だった元・日産CEOカルロス・ゴーン氏の逃亡事件ですが、ゴーン氏はキリスト教マロン派であり、その宗派が、日本の法を軽視し、自らのグループに属する人間であるゴーン氏を匿ったという事実。ここにも宗派制度による腐敗のメカニズムが見いだせるのではないでしょうか。
政治エリートの排除のみならず、制度自体の改革が求められていますが、エリートが権力を簡単に手離すとは思えません。またそこに宗教・宗派のパワーバランスのせめぎ合いがあることから、改革は一筋縄ではいかず、ディアブ首相の退陣は新たな混乱の入り口のように思えてなりません。
レバノンの国際関係
一方、レバノンは国際的な関係において、非常に難しい立場に置かれています。中東は、イスラム教の宗派対立、イスラエルとアラブ世界やイランとの対立、そこにアメリカの介入もあり、複雑なパワーバランスを持った地域と言えますが、多くの宗派を内包するレバノンは、それぞれのグループがそれぞれに国外の勢力と結びつき、地域全体の力のせめぎ合いを国内に抱え込むような形になっています。イスラム教シーア派の武装組織ヒズボラは対イスラエルの抗争を粘り強く続けていますが、米国からはテロ組織認定を受けたものの、イスラム教シーア派が支配的な国であるイランからは様々なバックアップを受けています。一方、それに対する首相のイスラム教スンニ派はイスラム教の盟主国を自任するサウジアラビアの支援を受けています。国際関係が流動すると、その影響を国内の各勢力がダイレクトに受ける構造となっているのです。
さらにはシリアでの戦争が大きく負担としてのしかかります。人口700万人弱の小国レバノンに、150万人ものシリア難民が流入、約50万人のパレスチナ難民と併せると、自ら経済価値を生み出すことが難しい200万人もの人口を抱えていることも、経済の足かせとなっています。筆者が2018年にベイルートを訪れた際、目抜き通りのハムラ通りは、夜になると物乞いをする難民で路傍が埋まっていたことを思い出します。
述べてきたように、レバノンのカントリーリスクは非常に高いと言わざるを得ません。しかし、風光明媚な土地、地中海の最奥に位置する立地、豊かな食文化を育んだ歴史など、魅力にあふれた土地柄でもあります。また、強権的な国家の多い中東においては珍しく、報道の自由が一定程度確保されている国でもあります。各宗派が違いを乗り越えて、共通の価値観を見出し、政治エリートの排除にとどまらずに公正で新しい政治制度が確立されることを望みます。
(根来 諭)
August 11, 2020
参考情報
Lebanon as We Know It Is Dying (Foreign Policy)
https://foreignpolicy.com/2020/07/30/lebanon-as-we-know-it-is-dying/
Beirut’s Deadly Blast Reignites Anger Against Lebanon’s Ruling Elite (Foreign Policy)
https://foreignpolicy.com/2020/08/05/beiruts-deadly-blast-reignites-anger-against-lebanons-ruling-elite/
Lebanon Corruption Perceptions Index (Transparency International)
https://www.transparency.org/en/countries/lebanon
シリア・レバノンを知るための64章(明石書店)
https://www.akashi.co.jp/book/b122259.html