経済の武器化の実態 ー パラオが直面する中国の威圧

  • 国際情勢
  • BCP・危機管理
  • レジリエンス

「経済を武器化する」とはどういうことか

 先日公開したレポート「地経学とは何か?「相互依存の罠」「戦略的自律性」「戦略的不可欠性」から読み解く国際経済」では、現代の国際経済を理解するための枠組みとして、地経学という視座と、それを構成する三つの中核概念が提示されました。経済的相互依存が深まるほど離脱が困難になり経済的威圧に脆弱になる「相互依存の罠」、過度な対外依存を避けて独立した政策判断能力を維持する「戦略的自律性」、そして相手にとって代替困難な存在となることで影響力を確保する「戦略的不可欠性」、この三つです。これらは抽象的な理論枠組みのように見えるかもしれません。しかし、人口約1万8000人という太平洋の小国・パラオで現在進行中の事態では、これらの概念が体現されています。本稿では、地経学の枠組みを補助線として、パラオで何が起きているのか、そしてそれが日本企業に何を示唆するのかを考えていきます。

 パラオは台湾と外交関係を維持する、世界に12しかない国の一つです。中国は「一つの中国」原則の例外を許容せず、長年にわたって台湾の外交的孤立化を進めており、2019年以降、ソロモン諸島・キリバス・ナウルが相次いで台湾と断交し、中国と国交を樹立しています。そして今、中国が次の標的としてあらゆる圧力を集中させているのが、パラオなのです。パラオでは観光業が国内総生産(GDP)の約半分を占めており、その経済構造は典型的な観光依存型です。問題は、この観光産業が誰に依存していたかにあります。かつてパラオを訪れる観光客の70%は中国人でした。美しいサンゴ礁とロックアイランドを目当てに、中国本土から大量の団体ツアーが押し寄せ、ホテルもレストランもチャイナマネーで潤っていたのです。経済学の教科書的に言えば、これは比較優位に基づく相互利益の関係であり、自由貿易の典型的な成功例にも見えました。

 しかし、ここに「相互依存の罠」が潜んでいました。2017年、中国は自国民のパラオへの渡航を非公式にブロックします。非公式に、というのは、表向きの政府発表を行うのではなく、旅行会社への指導や「未承認の渡航先」指定といった行政運用レベルの操作によって行ったのです。観光客は消え去り、ホテルやレストランは閑散としました。さらに圧力をかける手段は巧妙化していきます。ウィップス大統領が現職を目指して選挙活動をしていた2020年、隣国駐在の中国大使が、台湾との関係を断てば年間100万人の観光客をパラオに送り込むと約束したと言われています。しかし、ウィップス大統領はこれを拒絶しました。すると2024年3月、パラオ政府は大規模なサイバー攻撃を受け、財政システムが麻痺し、2万件を超える政府文書が窃取されたと発表しました。さらに同年5月、パラオの観光業界関係者は、マカオで開催される収益性の高い国際業界会議への入国ビザを拒否されます。6月には、中国の国営メディアと公式WeChatチャンネルで、パラオは中国人観光客にとって安全上のリスクが高まっている地域であると警告する記事が流れました。これらの結果、2024年の中国からの観光客数は半減し、現在は全観光客の30%にまで落ち込んでいます。蛇口を絞れば、依存国の経済の血流が止まる。これが、相互依存の非対称性が地経学的影響力に転化する瞬間であり、まさに「経済の武器化」の生々しい事例と言えるでしょう。

「我々はすでに戦争状態にある」― 重層化する威圧

 2025年9月15日、米インド太平洋軍の国際軍事法・作戦会議で、ウィップス大統領は「我々はすでに戦争状態にある。中国は指導力を弱体化させ、重要サービスを混乱させ、政府への信頼を損なうために意図的に動いている」と発言しました。 この発言は単なる比喩ではなく、観光客数の操作、サイバー攻撃、選挙への影響工作、米軍施設近くの土地を中国系投資家が99年リースで取得する動き、中国調査船によるパラオの排他的経済水域への違法な侵入、さらには麻薬密輸まで、複合的かつ持続的な圧力が「重層的に」加えられているのです。これは、複数の領域にわたって、それぞれは決定打にはならない圧力を長期間にわたって絶え間なく加え続けるやり方です。経済の武器化とは、もはや関税や輸出規制といった単独の手段の問題ではなく、こうした多面的な圧力の総体として理解する必要があるのです。

 ここで先のレポートの二つ目の概念である「戦略的自律性」を思い起こす必要があります。それは、外部の圧力や供給途絶に直面しても、独立した政策判断と行動能力を維持できるよう、過度な対外依存を避ける戦略的志向でした。パラオが今行っているのは、まさに苦境のなかでの戦略的自律性の追求です。中国からの観光客減少を相殺するため、パラオは日本やオーストラリアの政府支援を得て、これら諸国との直行便を新規開設しました。台湾もまた、パラオへの航空便を増便し、観光産業を支援しています。これは「フレンドショアリング」の縮図と言えるでしょう。

 また、パラオは米国と自由連合協定(COFA)を更新し、今後20年間にわたって8億9000万ドルの経済援助を受け取る代わりに、米軍に海洋・空域・陸地へのアクセスを継続的に認めることになりました。米軍は2026年完成予定の超水平線レーダーをパラオに建設中です。同盟国・同志国とのパートナーシップ強化を通じて、対中依存からの脱却を急いでいるわけです。ただし、ここで認識すべきは、人口1万8000人の国にとって、戦略的自律性の追求がいかに困難であるかという点です。観光客の市場分散、サイバー防衛能力の構築、選挙干渉への対抗、領海侵犯への対応、これらすべてを小国が単独で担うのは事実上不可能です。だからこそパラオは、米国、日本、オーストラリア、台湾という同志国のネットワークに自国を組み込むことで、辛うじて自律性を保とうとしているのです。

日本もまた標的である

 パラオの事例は、遠い太平洋の小国の特殊な物語ではありません。地経学の時代における経済的威圧のメカニズムが、最もむき出しの形で現れた縮図です。そして同じメカニズムは、すでに日本に対しても作動しています。

 2025年11月7日、高市早苗首相は衆議院予算委員会で、台湾有事に関し、戦艦を用いた武力行使が伴うものであれば日本の存立危機事態になり得ると答弁しました。これに対する中国側の反応は、パラオに用いられた手口の縮約版でした。日本産水産物の輸入停止、11月14日の「日本への渡航自粛に関する公告」、翌15日の中国大手航空会社6社による訪日便キャンセル無料化。観光と水産物という蛇口を、政治的判断ひとつで瞬時に締める。違いは、相手が人口1万8000人の小国ではなく、世界第三位の経済大国であるという点だけです。

 ここから経営者が読み取るべき論点は、三つあります。第一に、自社のコントロールが及ばない国会答弁を引き金として、売上が消えうる時代に、私たちはすでに突入しているという認識です。中国向け水産物を扱う事業者も、中国人観光客を主要顧客とする百貨店やホテルも、自ら政治的発言をしたわけではありません。それでも標的となる。これは異常事態ではなく、地経学の時代における新常態であり、こうしたリスクを経営判断に織り込むべきです。第二に、「単一市場依存」は経営戦略上の重大欠陥として扱うべきだということです。最も儲かる市場に最も多くの資源を投下するという経済合理性は、地経学の時代には脆弱性そのものに転化し、地経学的に”人質を取られる”構造を生んでしまいます。第三に、企業はもはや「政治の被害者」を装うことを許されないということです。経済の武器化が常態化した世界では、政府との対話、業界横断での代替調達網の構築、同盟国・同志国市場へのアクセス確保といった、本来「政府の仕事」とされてきた領域に、企業もまた当事者として関与せざるをえません。「安全保障は国、経済は企業」という従来の分業はすでに崩壊しており、経済安全保障は官民が一体となって取り組むべき領域へと変質しています。

経済合理性だけで組み立てた事業は、その合理性ゆえに脆弱です。単一市場への依存をどう減らし、代替の調達網や販路をどう確保するか。こうした問いを経営の議題に載せることが求められます。

(根来 諭)
July 23, 2026


メルマガ申し込みはこちら

信頼できる危機管理情報サービスとして続々導入決定!

スペクティが提供するAI防災危機管理情報サービス『Spectee Pro』https://spectee.co.jp/feature/)は、多くの官公庁・自治体、民間企業、報道機関で活用されており、抜群の速報性・正確性・網羅性で、危機発生時の被害状況などをどこよりも速く、正確に把握することが可能です。

また、『Spectee SCR』https://spectee.co.jp/service/specteescr/)はサプライチェーンに影響を与える危機を瞬時に可視化し、SNS・気象データ・地政学リスク情報など様々な情報をもとに、インシデント発生による危機をリアルタイムで覚知し、生産への影響や納期の遅れ等を迅速に把握することができます。

Share this with: