タイとカンボジアはなぜ紛争に陥ったのか、そしてサプライチェーンへの影響
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日本人も多く観光旅行に訪れるタイとカンボジアの両国ですが、激しく武力衝突し、お互いを厳しく非難し合っています。停戦合意に至ったものの、今後も予断を許さない状況です。一体どのような経緯があったのでしょうか?
根深い国境問題
タイとカンボジアの間には、歴史的、文化的、そして何よりも国境画定を巡る根深い問題が存在し、度々武力衝突に発展してきました。紛争は100年以上前から続き、近年も再燃し続けています。
タイとカンボジアの国境紛争は、19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランスによるインドシナ植民地化に根ざしています。当時、独立を維持しようとしたタイ(シャム)は、列強の勢力均衡の中で領土を割譲せざるを得ませんでした。具体的には、1867年にフランスはプノンペン周辺のカンボジア中部をタイに割譲させ、1896年にはイギリスとフランスがタイを緩衝国家とすることで合意し、タイの独立が保証されることになったのです。しかし、1907年にはカンボジアが保護国としての権利を獲得する代償として、フランスがカンボジア北部をタイに割譲させ、この中に後に紛争の火種となるプレアヴィヒア寺院が含まれていました。中東やアフリカでの問題と同じく、植民地時代の列強の強引で恣意的なふるまいが、現代の問題の根幹となっているのです。
こうした背景の中、カンボジアとタイの国境に位置する壮大な歴史的建造物であるプレアヴィヒア寺院が争点となります。クメール王朝時代に建立され「天空の寺院」とも称されるこの寺院は、第二次世界大戦後タイが実効支配していました。しかし、1950年代に独立したカンボジアが領有権を主張し国際司法裁判所(ICJ)に提訴、1962年にはICJがフランス植民地時代の地図に基づき「寺院周辺におけるカンボジア側の主権」を認めました。この判決は寺院そのものがカンボジア領であることを示しましたが、周辺の正確な国境線が明確に画定されなかったため、紛争の火種は残り続けました。国際司法裁判所は領土の判決を出す際に、分水嶺に基づいて領土を定義しましたが、改めて様々な学者が調査した結果、当初、国際司法裁判所が判断した分水嶺の計算と定義に明らかな間違いがあった事が後に発覚しました。また、実際の寺院の場所について言うと、カンボジア側は断崖絶壁であり、寺院へ通ずる参道やルートは明らかにタイ側から長年文化的に築かれてきたと言う事は明白だったことが、タイ側に強い不満を残すことになりました。

2008年以降の紛争の再燃
プレアヴィヒア寺院の世界遺産登録を巡るカンボジアの動きは、2008年以降、タイ国内の強い反発を招き、両国間の紛争を再燃させました。2008年7月にユネスコが寺院をカンボジアの世界遺産として登録すると、タイでは政治団体や市民団体が激しく抗議し、国境地帯では両軍がにらみ合い、同年10月には銃撃戦が発生し死傷者が出ました。その後も2009年や2011年には断続的な武力衝突が続き、特に2011年にはタイ軍が戦闘機を動員する大規模な事態に発展し、多くの死傷者と数十万人規模の避難民を出す結果となりました。こうした状況を受けて、2011年7月には国際司法裁判所(ICJ)が寺院周辺の非武装化を命じ、両国軍は撤兵しました。さらに2013年11月、ICJは1962年の判決を再確認し、プレアヴィヒアの突端部だけでなく周辺の丘陵地帯もカンボジア領であると明確にしました。このICJの判決は国際法的にカンボジアの主張を強く支持するもので、タイ国内では依然として反発が根強く、国境画定の根本的な解決には至っていません。
そして、2025年7月に紛争が再燃します。5月に「エメラルド・トライアングル」と呼ばれる三国国境地帯で衝突がありカンボジア兵が死亡。さらに7月16日にはカンボジアとの国境に近いタイ領内をタイ陸軍の部隊が巡回警備していた所、兵士の1人が地雷を踏み、計3名の兵士が負傷するという事件が起こました。これをカンボジアが設置していたとなると、オタワ条約(対人地雷の使用・貯蔵・生産及び以上の禁止、並びに廃棄に関する条約)に違反する行為であるとともに大量領内に侵入して無差別攻撃を行ったということになるので、タイがカンボジアを強く非難することにつながりました。ここから一気にタイの国民感情は爆発寸前となるとともにカンボジア側も反発し、7月24日の大規模な武力衝突につながっていくのです。
プレアヴィヒア寺院問題以外にも、タイとカンボジアの関係は複雑な要因が絡み合い、それが紛争をさらにこじらせています。未画定の国境線が複数存在し、植民地時代の地図とタイ側のより精緻な地図に基づく主張の間に食い違いがあります。最近では、タ・モアン・トム寺院など、プレアヴィヒア以外の遺跡を巡る領有権争いも再燃しています。また、文化的な対立も根深く、アンコールワットを含むクメール文化や、ムエタイとクン・クメールといった伝統格闘技の起源を巡る両国の主張が衝突しています。
国内政治の要因も紛争に影響を与え、特にタイでは政権交代期や政治的混乱期に、国境問題がナショナリズムを煽る材料として利用されることがあります。最近では、タイ現政権と反タクシン派・親軍派の主導権争いの中で国境問題が利用され、首相とカンボジア前首相の非公式電話会談内容の流出が事態をさらに複雑化させています。さらに、地政学的な力学も絡み合い、カンボジアが中国との軍事的関係を強化する一方で、タイは米国との安全保障協力を維持しており、この変化が両国間の対立を先鋭化させている側面もあります。
攻撃によって破壊されたタイの民家
[Update] Vid from a house in Ban Phon Thong, Dom Pradit Subdistrict, shows the destruction caused, but no one was injured there.#Thailand #Cambodia #ไทยกัมพูชา #ชายแดนไทยกัมพูชา pic.twitter.com/fn55oPXDaf
— Thai Enquirer (@ThaiEnquirer) July 24, 2025
サプライチェーンへの影響
衝突は起こしつつも、一方で両国は経済的に強く相互依存していることも事実です。それだけに現在再燃しているタイとカンボジアの紛争は、両国間のサプライチェーン、ひいては東南アジア地域全体のサプライチェーンに深刻な影響を与えつつあります。特に国境閉鎖という事態は、物流の停滞とコスト増を招き、様々な産業が打撃を避けられません。
今回の紛争再燃に伴う国境検問所の閉鎖は、陸路による物資の輸送をほぼ不可能にしています。従来、タイとカンボジアを結ぶ陸路はメコン経済圏における重要な物流回廊の一部であり、モノの効率的な輸送を可能にしていました。しかし、国境閉鎖によりこの「大動脈」が寸断されたことで、企業はベトナムを経由した海上輸送や航空輸送への切り替えを余儀なくされています。当然、代替ルートでは従来の陸路と比較して距離が大幅に伸び、輸送時間も長くなります。これにより、輸送コストが最大3倍に膨らむケースも報告されており、企業の収益を圧迫しています。リードタイムも伸びることから、生産計画の狂いや納期遅延につながってしまいます。
タイは長年生産拠点としてプレゼンスを発揮してきましたが、現在カンボジアはタイよりもはるかに低い人件費を武器として多くの企業にとって魅力的な投資先となっています。タイに主要拠点を置きつつ、人件費の安いカンボジアに生産工程の一部を移管する「タイ+1」戦略を採用する企業が多く存在していますが、今回の紛争はこの「タイ+1」戦略の脆弱性を露呈させました。地政学的なリスクが顕在化した場合、低賃金というメリットが物流コストの増大や生産停止リスクによって打ち消されてしまう可能性が浮上しています。東南アジアに生産拠点を置く多くの日本企業は、タイとカンボジア間のサプライチェーンに組み込まれているため、今回の紛争は日本企業にとっても深刻な影響を及ぼす可能性があります。
現時点では、両国の外交関係の格下げや国境検問所の閉鎖、武力衝突の激化など、事態は深刻化しています。タイ商務省は国境輸出の経済損失が600億バーツ(約2,700億円)に上ると試算しており、カンボジアも対タイ貿易目標の達成が困難であると見ています。上述したように両国の衝突というのは非常に根深いものがあり、早期解決は困難なように思えます。米中対立やトランプ関税によって「サプライチェーン戦略の見直し」に各社が取り組む中で、新たな変数としてタイ・カンボジア紛争を複雑な方程式に組み入れなければならなくなったと言えるでしょう。
(根来 諭)
July 30, 2025
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